2015年11月12日木曜日

2015ツール・ド・シンカラ その6

ここまで

疲労の色の濃い集団で、全ステージ中最も厳しい山岳を含む第5ステージに突入。序盤のイラン勢の打ち合いが落ちついたのをみはからって逃げに乗り、一番厳しい山を超えた。相棒のイランチャンプと2人で数分の差をもって残り40キロ。
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ロードレースにおいて、残り40キロで2〜3分差というのは、十分な差とはいえない。むしろ厳しい。俗に言われるのは、10キロ1分ルールだ。標準的な逃げと、標準的な大集団なら、大集団が意思をもてばだいたい10キロで1分ずつ差を縮めることができると言われている。これがプロ選手なら誰もが知っている経験則(a rule of thumb)だと思う。

例外はたくさんある。今回のようにまだアップダウンが残っており、予想の斜め上ばかり起こるレースでは番狂わせを演じる要素がいっそう残っている。

しかし僕は全く別に、この時点で逃げ切りはありうると直感していた。それは飛び出す前の集団の雰囲気であり、コースの雰囲気であり、相方のイランチャンプとのローテーションの滑らかさといったさらに高度な情報を判断に上乗せできるようになっているからだと思う。

もちろん本当に「勘」違いかもしれない。誰かが言ったように、「アイデアはそれほど重要じゃない。実行こそが困難だ」ということかもしれない。だが、逃げ切りを見すえた逃げ方と、アシストとしての効果を求める逃げ方は違うので、どういう気構えで逃げるかは大事だ。

イランチャンプも自分も、ひっきりなしにチームカーを呼ぶ。僕ら2人のすぐ後ろに2台のチームカーが走っているだけだから、普段の長い隊列に比べて格段に呼びやすい。余計なボトルは持たず、少しでも運ぶ重量を減らし、後ろの集団の情報をまめに聞く。突発的に後ろがペースアップを始めたら、合わせて一気に踏むつもりでいる。

「うしろもね、結構消耗しているから逃げ切りを視野に!」と監督が話しかけている。「最後下り基調だけど、どこかでアタック!」と指示があった瞬間に、さっと相方がこちらに視線を飛ばした。

「アタックって単語を使わないでください」と声を下げて返す。「攻撃とか、日本語でいってください!」監督は苦笑して下がる。

僕はザバスゼリーバーなぞをもらって補給食にしているが、イランチャンプはみかんとか、パンとかを食べていた。ワイルド。少し不格好で癖があるけれども、力強いペダリング。若い選手だが、白基調のナショナルチャンピオンジャージからは、あの怪物じみた選手の集う国のチャンピオンだという誇りが伝わってくる。

お互いにコースの得意不得意を分業して、登りのペースを僕が作り、下りで彼の体重を活かして高速で下る。2人で1つの構造物のようながっちりとした走りを組み立てていく。初対面の日本人とイラン人が、インドネシアの山道で隙のない走りを作り上げている様にポストモダニズムを感じる。

ラスト20キロ、差は変わらず。道は下り基調になった。体重の分だけ相手と似たような分量を引くのがきつい。しかし気持よく回っているこのローテーションを崩してしまえば、あっというまに後ろは僕らを捕らえてしまうだろう。総合逆転をかけて逃げた、シンカラ直前のツール・ド・北海道ではまさにそういう失敗をした。今回こそは。

ラスト10キロで2分差がオートバイから告げられると、お互いに少し微笑みを交わした。

登りが出てこないことに焦る。平坦の馬力では190センチはあろうかという大型の相方にはかないそうにない。残り距離が減っていく中、思い切った牽制もできず、ひたすら時計のように正確にローテーションを刻んでいた。こうなったら真っ向勝負と腹をくくる。

1キロの表示をみて、アタックに反応できるように心と身体の準備をする。しかし、ラスト800メートルで先頭をかわった瞬間に、明らかにこのタイミングでくると予想もできたアタックにつけなかった。イランチャンプは鋭く加速し、日本人でなかなか見ることのできない、大型選手がみせる力づくの巡航に突入した。

まずは冷静になれと自分にいいきかせる。アタックを外した以上はゴールラインまで最短の時間で到達するというシンプルな問題に集中する。ラスト400メートルでやや登り基調になり、前方でイランチャンプが苦しんでいるのが確認できたが、差が縮まらない。そのまま苦しみぬいて、結局ギャップを埋められずにゴールした。

ゴールラインで待っていたスタッフのところで、スプライトを受け取ってゴクゴク飲む。こういう時の炭酸飲料は、ヘルシーさとか、カロリーがどうとか、日本のお上品な清涼飲料水の謳い文句が馬鹿らしくなるぐらい、原始的なおいしさを感じる。普段日本では、そんなに飲まないんだけれど。

一寸先にゴールしたイランチャンプと握手して、おめでとうと言って握手した。彼には負けたが、少なくとも今日はオッズに勝ったと思った。どこかの賭場で「このアタックが捕まるか?」が持ちだされたとしたら、きっと捕まる方に賭ける人が多かっただろう。逃げ切りは、いつもある種の奇跡だから面白いと思う。

メイン集団もゴールして、例のごとく現地の子どもたちが選手テントをぐるりと取り囲み始める。最初のうちはまわりを囲んでいるだけだが、いつも何かのきっかけで防衛線は崩壊して、写真を取らせろ攻撃に囲まれる。シンカラ地方の子どもたちのスマートフォンには、疲れてちょっとひきつった顔をした自転車選手と写ったセルフィーがたくさん残されているはずだ。

レース後にはプールサイドで昼食が供された。僕は身を削らんばかりの走りをしすぎたせいか、食欲があまりわかずに少しライスとスープを食べただけだった。他のメンバーは元気に肉を食べた選手もいたし、パスタや米だけ食べていたりとあまり共通しているところがなかったように記憶している。

この食事の内容を後から何度も述懐することになる。それは、その晩から一人、また一人と選手が倒れ始めたからだった。